天然ガス

GTCC(ガスタービンコンバインドサイクル)で脱原発

>> EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

>> EDIT

被曝ぶらぶら病が子供に襲いかかる【被曝EE】 【YYYY】

被曝数値からは想定できない恐ろしいことが、いま子供に起きているようです。
あまりにも恐ろしいので、手が震えています。

「原発50キロ福島・郡山の子どもが大量の鼻血・下痢・倦怠感」(東京新聞6.16) 
http://livedoor.2.blogimg.jp/bookkeepingworld/imgs/d/8/d8c868fc.jpg




こういうことになる原因は、
1)内部被曝は、精密検査をして計算、推定するしか方法はないが、場合によっては、外部被曝の10倍以上もありえる。それが評価外、想定外になっている。

2)ぶらぶら病は、臨床的な数字やデータになりにくいので、統計から除外され、精神的な問題が原因とされている。

3)放射線の被害については、あまりにも我々の知識が少なすぎる。よく分からないことが多すぎる。

4)もしも、被害が想定よりも大きければ、真っ先に子供から被害者が出るであろう。

東京新聞は、他の新聞と袂を分かち、真実を追及することに目覚めたようです。

もう、子供たちから犠牲者が出始めたようです。どうしたらいいのか。

被曝ぶらぶら病は、被曝した人にでる、倦怠感や病弱などの症状です。

ぶらぶら病は、慢性被害と言われており、一生治らない可能性さえあります。




被曝ぶらぶら病について

肥田舜太郎さん講演・低線量内部被曝とぶらぶら病【福島第一原発関連】
http://d.hatena.ne.jp/naibuhibaku/


動画1・ヒロシマ原爆体験

被爆医師・肥田舜太郎氏講演『大人たちのつくった世界』
Vol 1. ヒロシマ原爆体験
http://www.youtube.com/watch?v=SAM6U5C_viA&feature=player_embedded


【Vol 1. 動画内容採録】
■28歳の時に・・・
ご紹介いただきました、肥田舜太郎という広島で被爆をした医師です。時間があんまりないので余計な話は省きますけれど、28歳の時に現役の軍医として広島の陸軍病院に赴任しました。ちょうど原爆が落ちる一年前の昭和19年の8月1日に広島の陸軍病院に行ったわけだ。もう戦争は負けが近くて、軍隊の中では勝てるなどと思っている人は一人もおりませんでした。大本営が発表する中国での戦線の状況も、「勝った!勝った!」と言うのはみんな嘘で、そこから入院してくる兵隊がいるわけですね。まず帰ってきた人は全部広島にあがるの(註・広島の陸軍病院に入院して、そこから別のところに振り分けていた)。どの兵隊に聞いても、「お前のところは勝ったそうだな」と聞いても、「もう師団長以下戦死しましたよ」という状態で、勝つなんてのは全然出てこないのです。というわけで、軍隊の中では僕らはみんな知ってました。いつ負けるかということ。

■広島は不思議なことに・・・
広島は不思議なことに、毎日飛行機が来るのに弾一発も落とさないのです。当時はなぜそうなのかはゼンゼンわからなかったのですが、あとで訊いてみたら、広島は原爆用にとってあって、普通の爆撃が来なかったのですね。飛行機が来ても通り過ぎて他所へ落として行く。まあそんな状態でした。で、まあ、8月6日の朝、爆弾(原爆)が落ちたわけですけれども。被爆者の方は、広島にしても長崎にしても、お話の中心は、爆弾の落ちた直下、その時の惨状をみなさんお話しになるんですね。あの惨憺たる地獄のような状態は、みなさん、部分的には経験上、お話しになるのですけれども、「その爆弾がなぜ落とされたのか」「なぜ広島が選ばれたのか」「その後被爆者はどのようになったのか」については、ご自分や周辺の知識しかなくて、全面的にお話ができる被爆者の方ってのがほとんどいないんですね。

私は原爆にあって死んでいく人を治療して、大変なことだと思っていたのですけれど、本当に原爆が大変なもので、人類にとってあんなものは二度と許してはいけないと思うようになったのは、30年、40年経ってからのこと。つまり、本人は被爆をしていないのにね、たまたま警察官をしていたために、動員されて翌日広島に入って、火の中で救援活動をやった。で、一段落して普通の警察官の仕事に帰る(戻る)頃から身体がだんだんおかしくなって、お医者さんに行っても何のことやら判らん。「何でもない、何でもない」と言われるうちに寝たきりになってしまう。そしてどんなにいい先生にかかっても病気がわからない。それで死んで行っちゃう。そうすると死亡診断書の書きようがないんだ。彼(医者)の知ってる病気のどれにも当てはまらない。仕方がないから、最後はみな心臓が弱りますから「急性心不全」というんで(病名を付けて)役場で扱ってもらう。私は半年ぐらいまでは、強引に「原爆症」という名前をつけたのです。ところがそれでは役場で受け取らない。「国際的に登録されていない、こんな病気は。これは国の法律の上で受け取る訳にいかないから法律の中にある病気を書いてくれ」。「この人は原爆で死んだんだ、間違いない」といくら言ってもね(ダメでした)。私はむしろ、直接被爆をしないで、翌日や3日後、一週間後くらいに(広島に)入ってね、今の医学ではわからない病気になって、失業するし、就職もあきらめる、結婚もできない、学校へも行けないっていうような不幸を受けた被爆者の人を、特に私は意識的に対応してきました。そういう意味で、戦後ずっとアメリカの占領の元では、そういうことを喋っただけでとっ掴まりますから、私は3度掴まっているのですけど、そういう運動をやっても占領下ではどうにもならないので、救援活動をしましたけども。アメリカは7年後に、サンフランシスコ条約を結んで(日本を)独立させ、一応日本の政府が国を治める体制になったんでけれど、中身は、安保条約を結んで、日本人の総理大臣が自分の議会と共に国民のための政治を行うことはまだ未だにできていません。





動画4・1ミリシーベルトでも危険

『大人たちのつくった世界』Vol 4.医者がわからない「ぶらぶら病」
http://www.youtube.com/watch?v=G5qq4CJxBRc&feature=player_embedded

あの、今、言ってるのは、「当面は心配ない」と言ってますね。だけど、何十年先のことは分かりませんよ、と、本当は言わなきゃいけないんだけど。
1ミリシーベルトなんてのは、発電所の連中に言わせたら舐めたっていいんだ、というような感覚ですよね。ぼくらに言わせると、1ミリシーベルトというのが幸・不幸の分かれ目となる。
   タイトル「大人たちの作った世界」
・ぶらぶら病
ぶらぶら病という病気なんだ。これは、医者がつけた名前じゃなしに、患者の家族がつけた。見たところなんでもない。「父ちゃん、畑行って働いてよ」。「じゃあ子供連れて畑行くか」って行って、これ(鍬で耕す)やったらね、30分と持たないのね。「俺ぁもうとってもかったるくて起きてられない。先に帰るからな」って言って、ウチに帰っちゃう。で、帰ると、座敷でゴロッて横になって寢ちゃってるんだね。毎日、そういうことが続くから、家族や、田舎の本家の旦那とかが、「あいつは広島に行って怠け者になって帰ったんだ」と。医者に見せろって、医者に見せても、検査なんぼやっても、病気らしい兆候がなんもないだね。本人がかったるくて動けないっていうだけなんだ。だから、いつの間にかナマケ病=ぶらぶら病で。ナマケ病っていうと具合が悪いからぶらぶらしてるからぶらぶら病。これは、広島・長崎を中心にたちまち広がって。ぼくのところにも聴こえて来るんですね。患者が来ると、やっぱりそうなんだ。

ぼくなんか、一番ビックリしたのは、ダルいっていうのは、自分も経験があるから、その程度のダルさっていうのは分かるよね。ところが、初めて来た患者が、受付では、被爆者って言わないんだ。被爆者、差別されてますから、黙ってて、ぼくの前に来るとだね、私に、「広島から来た肥田先生ですか?」って訊くんですね。「そうだ」って、言うと、安心してね。「私も広島から来た被爆者です」って、初めて言うんですよ。「どうして来たの?」っていうと、「かったるくて動けないんです」って。で、まあ、どんな風に被爆したとか、どこで被爆したとか話しを訊いてるうちに、この男がね、「先生ごめんなさい」って言って、向こう側で、私の机の上でこういう格好(肘をつく)するんです。失礼ですよね、普通は。「えー?」と思ってたら、そのうち、床へね、椅子から降りて、あぐらかくんだ、下へ。「先生ごめんなさい。椅子に座ってられません」。そのうちね、床へね、横になってこうなっちゃう(肘をついて)。「こういう形でしか、私は起きてられないんです」。

■そんなにダルいの......と
「そんなにダルいの?」と。「そうなんです」。それで初めてぼくはね、ぶらぶら病の患者のダルさのね程度っていうのが分かったわけ。初めてこれはただごとじゃないって、思いました。

で。実はまあ広島でね。広島の街の中では、家も何もないし、何もできないから、で、戸坂村(の仮設病院)は、閉鎖になったんです。村の人に迷惑で、学校も始まるしね、それがちょうど12月の半ばだった。それで村の人は、「悪いけど、病院の先生は患者さん連れて、どっか行って下さい」って言うわけだ。どっか行くって言ったって、広島は焼け野原だ、何もないんだ。結局はマッカーサー司令部に連絡をして、そして被爆者と職員がこんなに沢山、行くところがなくて、困ってる。どこでもいいからこれだけの人間が入れて病院の仕事ができるところを1つ配給してくれと。

■国立病院ができたってんでみんな来るわけだ
で、初めて山口県の柳井という市の郊外にある旧い軍隊をもらって、私たちは100人連れてったんだ。ところが、山口県に逃げていた被爆者が何万といるわけだ。それがお医者さんがなくて、(病院が)壊れてたのが、国立病院が出来たって言うんで、みんな来るわけだ。たちまち満員になっちゃうんだよね。たった医者は 6人か7人なのに、三千人から四千人。旧い軍隊の跡が、全部(いっぱい)。まだここは出来てませんって言ったって、勝手に布団持ってきて寝ころがっちゃう。暖房がないからね、そこら辺の農家から七輪をもらって来て、そこら辺の古材もらって来ちゃあ、病室の中で焚き火してるんだ。ぼうぼう火の出るね。

そんなところでぼくは仕事してたら、ぶらぶら病の患者が入院して来て、そのまま寝た切りになっちゃうわけね。そうすると、朝から晩まで看護婦が何べんもいかなきゃなんないわけ、そこへ。人手は取られるし、治療法は分らないし。で、そのうち翌日看護婦が行って見りゃ「あ、死んでました!」ってなる。そういうのを何例も見てね一体、なんの病気なんだと、30年間、私はずっと頭の中に持ってた。

東京に出て来てから、東大の先生とか、大学の教授に電話かけたり、患者送ったり色々して、教えて欲しいって言っても、誰もまともな返事をくれたのは、1人もいない。本当なら、「こういう病気は私たちは見たことがない、申し訳ないけれどこういう病気は知らない」って言うのが一番正直なんですね。そう書いて欲しかったの。ところがね、自分の経験では、これは病気ではないというのを書いてくる。こんな乱暴な話がありますか! 自分の知らない病気はね、この世の中には1つもないんだと。あとは全部俺が知ってると。こういうのが大学教授なんだ。もう腹が立ってね。テメエは人間なのか、と思いましたよ。実際ね、苦しい人間を、紹介状をつけて、当時のことだから、お金がかかるでしょ。タクシーなんかないころですよ。ムリムリね、大八車に乗せたりなんかして、家族は、病院まで連れてくわけじゃない? それで何時間も待ってね、やっとこさ診てもらったら、「病気じゃありません」なんて、飛んでもない話だ。だからもう私は日本の偉い先生とかぜんっぜん信用しないです。そういう人間が何人もいるわけだから。

ぼくは、そういう先生にもらった、「病気ではありません」って診断書、取ってありますよ。生きてたら持って行ってね、「おまえ、このとき、こんなこと言ってたんだぞ」って言ってやりたい、ホント。まあ生きてる人は一人もいませんよ。いま生きてたら120歳か130歳くらいだから、いませんよ。

■アメリカ行って
まあそういうわけでアメリカ行って、……なぜアメリカ行ったかって言うと、国連に訴えに行こうって言うことになって、昭和50年=1975年に、日本の国民代表団っていうのが、国連に、アメリカとソ連の、或いはよその国の、核実験を止めて欲しいという、……(核実験の)その度に被曝者ができるわけだから…… それをね、署名を集めて、国民代表団で行ったんだ。世界中の専門家を集めてね、日本でシンポジウムを開いて、日本の医者にどうしたら良いか教えてくれと、いう要請書を持って、私が日本の医者の代表となって行ったわけだ。

話を訊いた最後に、ハマーショルドという総長が、「日本の代表団の要求は良く分かった」と。「すぐ国連の会議にかけて、要求が通るように、お世話しますよ。ただし、ドクター肥田が出された医療の問題でシンポジウムを開いてくれと言うのは、残念ながら私はこれを受け取るわけには行かないと」と断られた。 びっくりしてね「理由は?」って訊いたら……。私が行ったのは1975年、で、それの7年前、昭和43年にアメリカ政府と日本政府は合同で、広島・長崎の医学的……


| 脱原発日記 | 19:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT















非公開コメント:

TRACKBACK URL

http://keikakuteiden1.blog.fc2.com/tb.php/211-d9030b7c

TRACKBACK

<< PREV | PAGE-SELECT | NEXT >>

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。